"Fullness" 田中いづみ という生き方
東京〜ニューヨーク に生きる ----- ダンサー、振付家、女性、妻、母、人として

「田中いづみ連続ロングインタヴュー」by上野房子

第5回 全力疾走する日々

 石川須妹子舞踊団・舞踊学園を拠点に、ダンサー、振付家、指導者として活動していた田中いづみは、大学入学後、他カンパニーの公演に出演し、コンクールに出場する等、活動の場を広げていった。そのハイライトとなったのが、1983年から85年まで、3回にわたって開催した「田中いづみダンスリサイタル」である。83年9月20日、草月ホールで開催された第一回公演のプログラムは、師であり母でもある石川須妹子作品の再演と、石井かほる、藤井公、庄司裕による新作ソロないしデュエットで構成した。舞踊界で地歩を固めた振付家の作品を、いわゆる門下ではない若手ダンサーが自身の名前を冠した公演で初演する企画は当時としても画期的で、大きな注目を集めた。

 「自分の色が定まっていない若手だからこそ、様々な色に染まる可能性があるのではないでしょうか。ダンサーとしての資質を活かせる公演をやってみたらどうか、という助言を頂いたこともあって、80年の埼玉全国舞踊コンクールで一位を受賞した際に踊った母の作品『狐火』に加えて、新作に挑戦することにしました。当時、振付家としてもっとも活躍していたお三方に作品をお願いした次第です」

 庄司作品への客演機会はあったが、藤井作品は氏が代表を務めていた埼玉県舞踊協会の夏期講座で学んだ程度、石井作品とは接点がなかった。田中は、未知の世界に足を踏み入れたのだ。

 「それぞれの先生に自分を委ね、私が持っているものを引き出して頂くために、全力で作品と向き合いました。 江古田の自宅から横浜と浦和と旗の台にある先生方の稽古場に出向くだけでもひと仕事でしたが、それ以上に大変だったのは、精神的なプレッシャーです。 メインのダンサーは、私一人。それまで4分程度の小品を主に踊っていた私が、ずっと長丁場で主役を務める作品に挑戦したわけですから。それぞれの先生は創作の手法が違えば、イメージの引き出し方もぜんぜん違います。三人三様の作品を受け止め、咀嚼し、理解し、必死で喰らいつきました。踊りの難しさと奥深さに改めて感じ入る日々でした。苦労した分、自分のなかにある核が磨かれ、その後の成長の基盤を築くことができたと思います」

 冒頭に上演されたのは、石井かほる作品『青いかさ』。前田哲彦が装置デザインを手がけ、時田ひとしが石井の指名によりパートナーを務めた。

 「時田さんと私が真っ白な状態になり、かほる先生の思い描く若者の初々しさを体現したデュエットです。かほる先生の指導は、具体的な動きを私達にあてはめるというやり方ではありません。先生が思い描くイメージを、時田さんと私が手探りをして、実際の動きにしていきました」

 藤井公振付は、『女は枯葉と生きる』。シューベルトの音楽を用いた叙情的なソロ。公演プログラムに、藤井は次のような言葉を寄せている。「胸の中から消えていった無数の夢は、冬の眠りに閉ざされてしまったのに、女は寒気のなか、尚も夢みることに囚われている。そんないじらしい女の叙情詩を田中いづみさんに重ねて見た」

 「藤井公先生の振付には、独特の動き、独特の間があります。先生がご自分で動いて見せてくださいました。先生が〈こう〉と言われる動きは、厳密に〈こう〉踊らなくてはならない。自分流にアレンジしてはいけない。動きの細部までを正確に把握することが不可欠です。公先生との稽古だけでは〈藤井節〉を習得しきれません。帰宅後も、自分でよく稽古をしたものです。動きと間の正確さということでは、藤井先生の作品がいちばん難しかった。藤井先生のお弟子さんだったらすんなりと出来る動きと間に苦労しながら挑んでいる私の姿が、逆に新鮮だったという評を頂きました」

 最後の演目は、庄司裕振付『モデルアート・カンタービレ』。小さな人形が幾つも置かれた舞台に、車椅子に乗った田中が現れる。と、彼女は立ち上がり、人形をかき抱き、激しく動き回る。叙情的な作品を踊る機会の多かった田中のドラマチックな演技に、当時の観客は彼女の新生面を見出したに違いない。 プログラムから、庄司のコメントを引用しておこう。「毎日、毎日、只呼吸している日常の不安はむしばまれゆく肉体か、生きる希望か 人間の心の奥にひそむ精神状態がある過去の部分を一つ一つ組み立ててゆく………」

 「庄司作品には何度も出演していたので、作風には慣れていました。 庄司先生も振付の際に具体的な指示を出されるので、その振付を正確に踊り、なおかつ自分の物として表現することが要求されます。けれども『モデルアート・カンタービレ』は、庄司先生としては異色の作品でした。庄司作品は、美しい動きを用いた繊細な作品が多かったのですが、私という素材を使ってドラマチックな作品を仕上げ、私のなかから今までとは全く違う部分を引き出してくださった。これが挑戦の意義なのだと思いました」

 人脈を越えて指導を乞う田中の姿勢は大きな話題を呼び、舞踊専門紙だけでなく、一般紙・誌でも取り上げられた。満場の観客が来場した草月ホールで、いよいよ本番が開幕した。

 「本番中の記憶が残っていません。踊りに没頭しきっていたからなのかもしれません。幕が降りた時には、今までにない達成感を感じました。端から見れば、無謀な挑戦だったに違いありません。でも、やって良かった、本当に良かったと思いました。終演後、草月ホールの二階にあるレストランで打上げをやりました。舞踊家や評論家など、色々な方達が、温かい気持ちで参加してくださったことを今でもよく憶えています」

 このリサイタルは、田中に大きな栄誉をもたらした。音楽舞踊新聞が選出する〈音楽家・舞踊家新人ベストテン〉(後の村松賞・音楽新聞新人賞)に、望月辰夫、千野真沙美、大倉現生等の舞踊家とともに選出された。84年と85年にもリサイタルを開催、田中のキャリアは着実に花開いたのである。

三人のコレオグラファーによる田中いづみダンスリサイタル vol.2

(1984年9月20日、草月ホール)
藤井公 作・振付『女が別れを告げるとき』
庄司裕 作・振付『亜麻色の乙女』(賛助出演:正木聡)
石井かほる 作・振付『Phone call』

田中いづみダンスリサイタル vol.3

(1985年9月18日、草月ホール)
田中いづみ作品より『夏』、『冬のエンゼル』
石井かほる 構成・振付『A Point』(スペシャル・ゲスト:厚木凡人)

一連のリサイタルの手応えを、田中自身はどうとらえているのだろうか。

 「こういう結果が出た、と特定するのは難しいです。といっても、リサイタルに限らず、自分が経験してきたことは、すべてプラスになっていると確信しています。時間や経費の効率とは関係なく、すべてが自分のためになっているはずです。真面目すぎる、もう少し遊びがあったほうがいいと言われたこともありますが、私としては、やる時は全力でやるのが当然で、中途半端にこなすなんて考えられません。ただ、オンとオフの切り換えは、我ながら上手だと思います。ダンスの外の世界の友人が多く、スポーツをしたり観戦したり、見知らぬ土地に旅行に行くのも好き。こうして気持ちをリフレッシュして、またダンスに打ち込むのです」

 その当時の田中は、自身のリサイタルと所属する石川須妹子舞踊団・舞踊学園での活動に加えて、数多の舞台に客演を重ねている。踊って、踊って、踊り続ける日々を過ごしていた。

 「舞台に出ることは、私の日常でした。年間20回前後の公演に出ていたでしょうか。踊る機会に恵まれ、ほんとうに嬉しかった。色々な作品を踊りながら意識していたのは、自分のスタイルを模索することです。未熟だったから自分のスタイルを掴めていない、と言うこともできますが、自分のスタイルとは、見つけようとして見つかるものではありません。ひたすら踊り、舞台に立ち、試行錯誤を繰り返し、だんだんと周囲の人達が、あ、これが貴女のスタイルなのね、と言ってくれるようになる。その時に、ようやく自分の方向性に気付くのだと思います。多くの作品で踊り、自分の知らない世界に触れ、自分に求められていることを理解し、自分のものにし、その上でしっかりと舞台で表現する。経験値が少ないと、何をどうすべきなのか、判断できない。実際、つい7、8年前までは模索していました。その段階に至るまで、もちろんその後も色々な経験を積むべきなのです」

 1985年も、充実した年だった。多くの舞台に立つかたわら、2月末の〈第54回新人舞踊公演〉に自作ソロ『冬のエンゼル』を出品した。現代舞踊協会が主催する年2回の定例イベントで、54回目を数える同年の公演では、8日にわたって170を越える作品が上演された。

「新人舞踊公演は、文字通り、現代舞踊界の若手の登竜門でした。ここに出場しなくては、批評家や舞踊家に見てもらう手段がなかったほどです。現在のように若手の活動の場がなかったからですが、別の見方をすれば、若手振付家の発表の場が集約されていたことはメリットで、参加者のモチベーションもとても高いものでした」

 同公演は、審査員の評価を受ける場でもあった。通常のコンクールとは異なり、ダンサーの資質だけでなく、作品の優劣も審査の対象となっている。 田中は最優秀新人賞に輝いた。さらに3月に全国舞踊コンクールで『内なる襞に…』を踊って入賞を果たし、9月に第三回リサイタルを敢行。11月には、文化庁在外研修員としてニューヨークに旅立った。田中いづみのキャリアの、新たな章の始まりである。



Interview and text by Sako Ueno 上野房子

上野房子プロフィール

ダンス批評家
共同通信、音楽新聞他に寄稿
翻訳書にヴァレリー グリーグ著「インサイドバレエテクニック 正しいレッスンとテクニックの向上」
明治大学・明治学院大学非常勤講師
目下、スキ・ショーラー著「バランシン・テクニック」の翻訳の仕上げに邁進している。