"Fullness" 田中いづみ という生き方
東京〜ニューヨーク に生きる ----- ダンサー、振付家、女性、妻、母、人として

「田中いづみ連続ロングインタヴュー」by上野房子

第3回 舞踊家の娘として生まれること、育つこと

気がついたら踊っていた

 私の母は、舞踊家の石川須妹子です。日本のモダンダンスのパイオニアの一人、檜健次氏(1908〜1983)や、宝塚歌劇団の振付家だった三木一郎氏に師事し、1950年に石川須妹子舞踊研究所(現在石川須妹子舞踊学園)を設立しました。私自身は、3歳の頃に自分の意志で踊りを習い始めた、と母から聞いています。気がついたら、踊っていました。
 研究所のレッスンでは、前半でプリエやタンデュなど、バレエのバーレッスンのような基本練習をやり、後半は〈クロスステップ〉という、独自の動きをやっていました。脚を高く上げながら、あるいはルルベのターンやジャンプをしながら、稽古場を斜めに進んでいくものです。このレッスンは、身体全体を使いながら今でいう〈体幹〉を鍛えるのに役立ったと思います。
 4歳の時に出た発表会で、ちょっとした事件が起きました。母が振り付けたソロを踊っている最中に、突然、音楽が途切れてしまった。オープンリールの音楽テープを使っていたのですが、部分的に音が消えていたのです。袖にいた大人達は真っ青になったけれど、私は平然と踊り続けたそうです。しばらくして音楽が戻った時、振りと音楽のタイミングがぴったり合っていた! 私のキャリアで最高のパフォーマンスかもしれません(笑)。

踊ることよりも、振付に関心があった

 小さな頃から、作品を作るのが好きでした。 小学校1年生の時に『ゆれる花びら』というソロを振り付け、発表会で踊りました。頭の中でやりたいことを組み立てて、題名を決め、家にあったレコードを次々と聞いて音楽を選びました。残念ながら、振付は記憶していないのですが、私の振付デビュー作です。 その時から中学生の頃まで、発表会では毎回、自作を踊っていました。
 小学校6年生の時には、稽古場での発表会を“プロデュース”しました。出演者は、私と、踊りを習っていない同級生2、3人。彼女達に踊れる振付を考えて、稽古をして振付を憶えてもらい、衣装は研究所にあったものから選びました。プログラムは、2人で踊る作品や私が踊るソロ、全員で踊る作品を組み合わせた、2部構成。近所の子供や同級生を招待して、休憩時間にはお菓子やジュースを出しました。頭の中でシミュレーションをして、準備して、実際にやってみるのが好きなんですね。Aちゃんが踊るなら、こんな作品。この作品なら、Bちゃん向き…。習ったことを上手に踊ろうとする意識はあまりなく、人に踊ってもらうことに想像力を働かせていました。踊ることは、振付に直結していたのです。

 正直に言うと、稽古自体はあまり好きではありませんでした。 むしろ、結婚して子供を産んだ後のほうが、熱心に稽古をしているかもしれません。稽古をしないと、体が言う事をきかないことを痛感したからですが。
 中学生の頃、レッスン態度が不真面目だったので、母に辞めなさいと言われたことがあります。それどころか、母にこんな爆弾宣言をしました。「私はダンスを続けない。研究所を継がない。私には違う才能があるはずだから」。母は、反対したらかえって私が意固地になるだろうと考えて、「あぁ、そう」と軽く聞き流しました。母の対応が功を奏したのか(笑)、私が踊りから完全に離れることはなく、レッスンを受け続けていました。その当時の私は反抗期の最中で、また、自分の中でのダンスの位置づけが曖昧だったため、すべてを母のせいにして、自分がやりたくてやった物でないから続ける価値はないと思い込んでいたのです。いま思うと、恥ずかしいことですが、これも人間の成長に必要な過程だったのかもしれません。とはいえ、中学や高校の授業で創作ダンスをやった時には、先頭に立って振付をして、真ん中で踊りました。文化祭で『ウエスト・サイド物語』を振り付けたのは、懐かしい思い出です。
 モダンダンスと平行して、母の研究所に教えにいらした、東京シティ・バレエ団の青山美知子さんや吉沢真知子さん、中島信欣さんからバレエのレッスンを受けていた時期もありました。モダンダンスを本格的にやっている人達が、バレエも並行してやるのが当たり前になった時期に差しかかっていたのだと思います。

 バレエを勉強して、モダンダンスの特徴と自分の課題を改めて認識しました。いちばん強く感じたのは、ターンアウトの必要性と、足が床を離れる時の感覚を研ぎ澄ますことです。モダンダンスもバレエもそれぞれの方法で身体の芯を作っていきますが、異なるアプローチを経験することによって、自分を鍛える方法の幅が広がったと思います。他者を指導する際にも役立っています。
 実家が舞踊研究所だからといって、英才教育を受けた訳ではありません。高校生の頃まではレッスンを受ける回数は週に2回、コンクールには幼稚園と小学生の時に出場して予選を通過した程度です。その当時は東京新聞全国舞踊コンクールしかありませんでしたが、予選が二次まであったのを覚えています。発表会や学校で張り切って振付をする一方、友達と遊ぶ時にはとことん遊ぶ、ごく普通の子供でした。ただ、小学生の時は、授業中に自分からあまり発言することのない、おとなしい生徒に見えたようです。担任の先生から、もう少し積極性を持ったほうがいい、とよく注意されました。でも、私に言わせれば、他に分かっている生徒がいるのだから、その子が挙手して発言すればいい。その場の状況を分析した結果、手を挙げなかっただけなのです。年齢の割に、冷静な子供だったのかもしれません。

同世代のダンサーから刺激を受ける

 高校卒業後、大学に進学して心理学を専攻しました。大学生活と平行して、外部の公演に出演するようになりました。20歳の時に初めて現代舞踊協会の新人公演に出演し、それを見た先生方が声をかけて下さった。初めての外部公演は、平岡斗南夫先生の都民芸術フェスティバルでの『越前竹人形』でした。主演は下田栄子先生と田中泯さんでした。夏の移動芸術祭公演では、庄司裕先生の作品に数年にわたって参加し、山形、新潟、島根、滋賀で公演したのを覚えています。安藤哲子、石井かほる、江崎司、北井一郎、志賀美也子、正田千鶴、横井茂各先生にも声をかけて頂きました。

 やりがいのある作品に関わる機会に恵まれて、色々な作品で踊りたい、という意欲が湧きました。このくらい踊れるようになりたい、もう少し上達したい、という自分なりの目標を作って、一歩ずつ前進していきました。
 母は、毎年、〈石川須妹子舞踊学園〉の発表会をするほか、現代舞踊協会の合同公演、東京新聞現代舞踊展等に作品を出していましたが、舞踊団として単独公演をするようになったのは76年のことでした。それ以前は、研究所に所属して外部で活躍している人もいましたが、ちょうど私が成人した頃に、本格的に舞踊活動をする同年代のダンサーがまとまって増え、公演が出来るまでになったのです。舞踊界全体を見ても、私の世代は、今でも活躍している人が多いように思います。

 外部公演で同世代の人達と切磋琢磨しながら踊るのは、刺激的な経験でした。若手ダンサーが次々と台頭し、舞踊界全体に活気が満ちていたようでした。奥山由紀枝さん、 木佐貫邦子さん、 黒沢美香さん、地主律子さん、高野尚美さん、武元賀寿子さん、妻木律子さん、波場千恵子さん、馬場ひかりさん、平田実千子さん、本間祥公さん、山名たみえさん。当時はもっと大勢が踊っていた。ほとんどのモダンダンス公演に現代舞踊協会が関与していたので、ダンサー同士が顔なじみで、誰がどのような活動をしているのかを把握していました。
 教え始めたのも、大学時代のことです。週に1回程度、母が世田谷に新設したスタジオで、レッスンを担当しました。教えることはその人への影響を考えると責任のある仕事ですが、苦ではなかった。生徒達も新米の教師によくついてきてくれました。生徒が発表会で踊る作品、コンクール出場作品も振り付けました。人に本格的に振り付始めたこの頃は、自分も学ぶ事が多い日々でした。新作の稽古を始めると、かつての私のように、目を輝かせて張り切る子供がいました。その子供の一人が、現在、田中いづみダンスグループ・石川須妹子舞踊団のメンバーである杉山美樹です。 私にとっても、いちばん楽しい時間でした。

大学で視野を広げ、そして舞踊の道へ

 踊りと平行して、大学生活も満喫しました。年間20回ほどあった公演の合間を縫って友人とスキー旅行に出かけたり、自動車部に入って競技に参加する等、様々な経験をしました。踊りに没頭して、もっと練習すべきだったのかもしれない。でも、舞踊の外の世界に目を向けて、視野を広げたかったのです。大学では、性格心理学を学んでいました。心理学の道に進むことはありませんでしたが、今、舞踊心理学を実践している面もあると思います。

 舞踊に関係のない仕事をしていた父の影響かもしれません。運動生理学が専門の大学授教だったので、自宅には始終、教え子や大学関係者が訪ねてきました。母の教え子も出入りしていたので、いつも客人のいる、賑やかな家庭でした。
 大学卒業後も踊りを続けることを決意していました。大学卒業を控えた頃に、自分の中で占める踊りの存在が徐々に大きくなってきたこともあり、卒業前、就職活動はしませんでした。同級生と違う道を歩むことに対して、不安を感じることはありませんでした。我ながら、とてもポジティブだったと思います。
 当時はいったん就職したら、一生、その職場で働き続けることが一般的で、踊りと他の仕事を両立させる環境は整っていなかった。また、踊りという仕事が、今以上に不安定だったのは事実です。自分が出演する公演チケットの割り当てや出演料といった条件は、現在のほうが恵まれているように思います。最近の現代舞踊協会では、新人公演でも文化庁の助成を受けることがあり、その場合は出演者に出演料が支払われます。だからといって、新人時代の私が中途半端なことをしていたわけではありません。誰かに押し付けられたのではなく、自分自身で選んだ道ですから。

 ダンサーとして本格的に活動し始めたのは二十歳の頃で、決して早いスタートではありません。コンクールに本腰を入れたのはさらに遅く、大学卒業後でした。 両親は私の選択に口出しをせずに、見守ってくれました。やると決めた以上、必死でやり続けなさいという考え方でした。特に父は、選んだことをやり抜く生き方を貫いた人だったので、その影響を受けたように思います。
 母から受けた影響は、 舞踊家・振付家として今日も関わり続けているので、現時点で客観的に判断するのは難しいです。子供時代は、主に助手の先生に習っていたので、母を教師としてあまり意識していなかったように思います。 時々、母に教わることがあっても、私が特別扱いされることはなかった。むしろ、そのクラスでちゃんと踊っていない子供がいた場合、その子のかわりに私を注意する、という教え方でした。
 振付家として、母から折々に助言を受けてきました。小さな頃は素直に母の言葉に従っていましたが、私が反抗期になると、的確な助言でもわざと逆らうことがありました。大人になってからは、納得したことは受け入れ、譲れない部分は自分の主張を通す、というように選択できるようになりました。母が長年積み上げて来たものには、私のような若輩者はどうもがいても太刀打ちできません。もちろん、信念を持って自分の作品を作っているので、譲れない時は譲らず、自分の考えを貫き通します。 ただし、 私自身が迷っている時は、母の意見を受け入れる傾向があります。

 母の師匠だった檜健次先生の指導を受けたことはありませんが、檜先生の稽古場には何回か伺いました。中学生の頃、差し向かいで話す機会がありました。厳しい教師だったと語り継がれていますが、とても穏やかな、優しい感じの方でした。「何か振付をするのかい」と訊かれたので、『余韻』という作品を発表会で踊った、と答えました。「何の余韻なのかわかる題名にしたほうがよい」とおっしゃったのを覚えています。「とにかく本を読みなさい。舞踊家には色々な知識が必要だから」とも助言されました。身近に接していた指導者ではないけれど、この時の会話は心に残っています。


舞踊家を目指す人へのメッセージ

 今、様々な人が様々な動機で踊りに関わっています。習い事として楽しむのもその一つですが、才能や身体条件に恵まれた人が、あるいは踊るのが大好きな人が受験や結婚を機に踊りを離れていくのを目にするのは、とても残念です。以前は大学受験が大きな節目でしたが、最近では中学受験のために踊りを辞める生徒が多くなりました。本当に踊りたいと思った時には、信念を貫いて欲しいと思います。踊りは、踊る人に心の豊かさを与えてくれる、そして健康体を維持できる、心身共に良いものです。また、観る人に感動を伝えられるまでになれば、この上なく素晴らしいものになります。踊りたい人は何歳だろうと踊れるし、たとえ自分が踊るのを辞めても、振付をしたり、指導をしたりと、一生携わっていくことができます。もし自分が踊ることを体験していなかったら、このような喜びを、一生、味わえなかったでしょう。そう思うと、私は幸せだと思うばかりです。


Interview and text by Sako Ueno 上野房子

上野房子プロフィール

ダンス批評家
共同通信、音楽新聞他に寄稿
翻訳書にヴァレリー グリーグ著「インサイドバレエテクニック 正しいレッスンとテクニックの向上」
明治大学・明治学院大学非常勤講師
目下、スキ・ショーラー著「バランシン・テクニック」の翻訳の仕上げに邁進している。